もう1つの蕪島物語
『1945年8月17日八戸市街を空襲する』
もし、終戦が2日遅れていたら、八戸は焼け野原になっていた。
ウミネコの繁殖地 蕪島の別の一面を調べていたら、そんな事実を知らされました。
米軍から予告ビラが撒かれたそうなんです。
その別の一面とは・・・
蕪嶋神社社殿の手前
仕事終わりに行ったら、参道が閉じられてましたので、Google先生より。
こちらは海防艦『稲木』乗組員の慰霊碑
海防艦『稲木』とは?
昭和44年に造られた小型の軍艦
北方警備が任務でした。
少し話は飛びますが、今は陸続きな蕪島
大正時代までは、こんな感じでした。
昭和になり、旧日本軍の拠点となり、埋め立て工事が行われました。
現在は封鎖されていますが、蕪島には何ヵ所か海側に洞窟が掘られ、格納庫になっていたそうです。
そこに格納されていたのは潜水艦とも特攻ボートの『震洋』だったとも言われています。
当時から八戸には、セメント、鉄鋼の生産工場があり、米軍からも目をつけられる都市の一つでした。
最初の空襲は、昭和20年7月14日
①午前5時から7時
②午前9時から11時
高舘飛行場(現・八戸基地)・日東化学・尻内駅(現・八戸駅)が攻撃されました。
15日までの2日間で
死者・行方不明者452名、重軽傷者が多数という被害。
8月9日午前6時、再び八戸に米軍の戦闘機50機が飛来しました。
蕪島沖にたまたま停泊していた稲木は、たった一隻で応戦します。
しかし、急襲であったため、錨を上げる間もありませんでした。
結果、ロケット弾を集中的に浴びせられ轟沈
総員150名の内、艦長以下29名が亡くなりました。
多くの乗組員は、船から離れ泳いで逃げたため助かりましたが、当時艦長は生き残る事が許されなかったため、船と運命を共にしたそうです。
八戸の街に降り注ぐはずであったロケット弾を稲木が受けたことで街には被害がありませんでした。
その後、この話は『八戸の盾』として語り継がれることになります。
1964年(昭和39年)船が引き上げられ、遺族には、遺骨として国より小石が1つだけ入った遺骨箱が贈られたそうです。
蕪島に何となく軍艦の慰霊碑があることは認識していましたが、詳細までは知りませんでした。
なかなか開門時間に行くことができないのですが、蕪島に上がれたら、神社の鈴と共にこの鐘を鳴らそうと思います。